チャイナロビー

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当事者の日本より思慮深い米国

日中関係に関して、日本より米国の方が理解が深いのはどうした事だろう。
日本の政治家、官僚の質が問われることになるだろう。

「日中関係改善のため、首相は戦争を詫びよ」 | アメリカから見た世界 | 東洋経済オンライン | 新世代リーダーのためのビジネスサイト

靖国問題の理解に欠ける安倍総理

常識的な政治家なら分かっているはずだが、元内閣官房の側近も言うように、そうではないらしい。歴史理解にも外交にも疎い安倍氏は総理に不適格である。

保阪正康氏が言う通り、アーリントンと靖国神社は成り立ちも憲法との関わりも異なる。

事実、靖国神社宗教法人の運営であり、理念、合祀に国が関わることはない。

それに靖国神社内ねな遊就館は、あの戦争を正当化する軍国主義そのものである。単なる展示館ではない。

そこへ総理が行くのである。中国、韓国だけでなく、米国、英国をはじめとする当時の連合国の面々が総理の靖国参拝を批判するのは当然の事だ。

それに対し、「中国、韓国国民の気持ちを傷つける考えはない。」と言うが、歴史を認識せず、靖国神社の立ち位置さえ理解しない言動を各国が批判するのは当然の事であろう。

150人もの行列を作り参拝する政治家も同様、戦争総括すらできないくせに、いったい何を参るのだろうか?

そんな理解ない、役立たずの政治家には、まとめて辞任して欲しいものだ。

尖閣は日本固有の領土と言えるのか?

日本政府の「尖閣は日本固有の領土であり、中国との間に領土問題は存在しない。」の言葉には、日中関係改善への意思がないばかりか、固有たる裏付けを示さない政府の姿勢には辟易するばかりだ。

機会ある毎に固有の由来を尋ねるのだが、固有の領土となっており、一切の疑問はないとの返事しか出てこず、誰も筆者に説明することはなかった。

筆者は、中国と深い関係はあるものの、尖閣問題に関し、ナショナリズムにとらわれない極めて客観的な視点で見ている事を理解頂きたい。

さて、尖閣の歴史を振り返る上で、①1885年当時の状況、②1895年の閣議決定、③1945年米国による統治、④沖縄返還以降 に分けて事実と照らし合わせてみよう。

まず、①の時点での日本の認識を確認したい。

少なくとも、この時点では日本の領土ではないことは明白だ。

対する中国は、明の時代に遡り尖閣諸島(日本名)の認識があったとしている。(今回、この点については省略する)

下記は当時の書簡であるが、中国(清)に尖閣諸島への認識が強かった事がうかがえる。

以下、書簡。

井上馨外務卿(1885年10月21日、山県有朋内務卿あての書簡)
「清の新聞が自国の領土である花瓶嶼や彭隹山を日本が占領するかもしれないなどとの風説を流し、清の政府や民衆が日本に猜疑心を抱いている。こんな時に久場島魚釣島などに国標を建てるのはいたずらに不安をあおるだけで好ましくない。国標を建て開拓等に着手するのは他日の機会に譲るべきだ」

 清の新聞が自国の島を日本が占領するかもしれないと報じたことを挙げ、「清の政府や民衆が日本に猜疑心を抱いている時に久場島魚釣島などに国標を建てるのはいたずらに不安をあおる」と指摘。国標を建てたり、開拓に着手したりするのは「他日の機会に譲るべきだ」としている。


 しかし、日清戦争の勝利がほぼ確実となった94年12月になると対応が変わる。野村靖内相が陸奥宗光外相に「昔とは情勢が異なる」と日本領編入の閣議決定を求め、翌月に実現した。

 中国はこうした経緯から、日本が日清戦争に紛れてひそかに盗み取り、下関条約の締結によって台湾の「付属島嶼(とうしょ)」として正式に日本へ譲り渡された、と主張する。

以上が、1885年以後、1895年閣議決定までの状況である。

さて、問題となる②の閣議決定前後の状況を説明しよう。

日本政府が論拠とする国際法の先占の法理であるが、当時の日本政府の実際の行動は下記の内容であったとされる。

1885年以降、慎重な調査をしたと言うのだが、尖閣周辺に船を進め、人が住んでおらず、他国(この場合、清に限定される)の支配下にない無主地であることを確認したのであろうが、清にお伺いを立てた事実はない。

上記の書簡にあるように、日本の調査船の存在は、清にとって尖閣を含む台湾周辺の島を日本が侵略すると言う懸念があったのも事実である。

古来から、尖閣周辺は良い漁場であったはずだが、当時の日本政府には、漁場権の認識はなかったと見られる。

このような状況下で閣議決定されたのだが、不十分な調査だけではなく、閣議決定後の処理にも疑問が残る。

外務省のデータを見ても、この閣議決定は、国標を立てる許可のみであり、官報にも掲載されずあくまで秘密裏に行われたものであった。

つまり、日本国民にも周辺国にも知らされることはなかったのである。

当時の国際法では、戦争・侵略による割譲、金銭的な譲渡と並び、無主地先占の法理がいわゆる固有の領土とする要件とされており、他国の支配が及んでいないこと、領有する国の意思表明による国際社会の認知、それに実際に実行支配をする事などが必要とされていた。

しかしである。

日本の行動を振り返ると、調査を含め国際社会への表明を怠り、国標の建設も1969年までされることはなかったのだ。これでは、要件の未達とされても仕方がないのだ。

戦後まで尖閣を領有できたのは、1895年4月の下関条約があったためである。上述の戦争による割譲のケーキだ。

日本政府は尖閣に鰹節工場があったことを実行支配のひとつとするが、中国から見れば下関条約による領有後の事象でしかない。

以上を振り返る限り、日本政府が固有の領土と言い張るには不十分だと言わざるを得ない。

次回は、太平洋戦争後の尖閣の取り扱いについて説明しよう。